生活の質そのもの自体が深い教養や人生の本質に比例すると仮定し、研究致しました。
つまり、音楽や、自分自身で何かに確信し心に覚悟を決めた物の練習は日常生活で練習可能であると現時点で私は考えております。
その一つとして幼少期から当時私は東京学芸大学附属竹早小学校、中学校に登校、下校時の際、巨大な坂道、とんでもなく長い階段やエスカレーターを登り続けたり、降り続けるという修錬をしていた為に歩行時間が多く、歩行の質について疑問を抱き考え続けました。
考え続けた結果、当時も今も私には規則性があり、階段で例えるならば、当時私は左足から階段を降り、右足から階段を上っている事を自覚しました。
何故かその規則性に疑問に感じ、逆に右足から階段を降り、左足から階段を上ってみたら生活にどう影響を及ぼすのか仮定し実践した結果、ほんの少しだけドラムが上手くなりました。
ドラムに出会って愛してしまった今の私を下さったのは、天に召されたある先人の偉人様のお言葉によるものです。
そのお言葉はADL「日常生活動作」の研究の分析と私は解釈し、段階的に両利きになる事がADL値の上昇と考え、私なりのボディービルに出会い、例えば左手でドライヤー、歯磨き、箸を使い食事をするだけでドラムや鍵盤楽器が上達する段階までは人体を研究できました。
スティック、鍵盤、アートに触れる以前の、人体におけるの課題が、ADL値の上昇の鍵(key)になると考え、今でも永遠に段階的な鍵(key)を見つけていくことが、私の振り返ってみれば色んな景色となり、現時点でも永遠に研究の「最中」が続き続けると私は考えております。
「質」そのもの自体には色んな「質」が当然あると考えており、正解はない、移ろい続けるものと私は考えております。
例えば、破滅な「質」がその人にとって正解であれば、正解でいいと私は考えてます。
ある私の先人は、破滅的な「質」且つ、爆発的な熱量を伴い続けるという質が、その偉人にとっての生き様でした。
ある私の先人は、捨て身且つ、冷静且つ情熱的な姿勢を保ち続けるという「質」も、その偉人にとっての生き様でした。
『質』そのものが純粋かつ正直であればあるほど、第三者からの決めつけや先入観が入り込み、その偉人様に問題が押し付けられ、それは第三者、その偉人様の人生の豊かさにつながったと、私個人は思いません。
その偉人様方は、語らないため、自らは誰にも理解されないというある種の線引きや、悟りをしているように、私の主観ですが、感じて幼少期から過ごしていました。
私の主観ですが、その偉人様方は波瀾万丈な、完璧すぎるアートな人生だったと、私は思います。
しかし、人生とは常に儚いものでもあり、その偉人様方に当社の、アート、音楽が届く日は来ませんでした。
または、爆音で耳に一曲届いた次の日に天に召されました。
お恥ずかしいお話ながら、天空に、恩人様方に熱情たる私なりの形の愛を何がなんでも届ける、その思い、一心で立ち上げたのが、株式会社トウチュウカソウです。
今日の芸術、音楽は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、時代の流れに伴って大きく多種多様に「音楽」を「芸術」を、お一人様で自由に発信できる場へと、多様化していきました。
少々横道に逸れますが、幼少期に学んだ貴重な事柄の一つとしては、日本人は朝の主な主食のエネルギー源が炭水化物であるお米かパンかと存じますが、私の記憶では、当時長寿についての研究機関があり、あるお国様の、ある島では脂の多いベーコンが主な朝食、又は主な食事のエネルギー源であることを学びました。
老夫婦様は「ベーコンと卵しか朝は食べない」と言い切っておられる印象でしたが、脂分が多い偏った食事にもかかわらず血中コレステロール値に全く異常がなく、元気溌剌に平均健康寿命が90歳を超している事象が人類の寿命における叡智なのでは?と、研究したようです。
結論としては、遺伝子であるDNAそのもの自体が通常のDNA回路とは異なり、遺伝子的に違い、脂をケトン体としてより効率的に吸収できる能力がその島にしかない遺伝子であったといった結論が当時、学んだ記憶があります。現在は分かりかねます。
つまり、当時、同じ人種でもそれぞれの遺伝子そのもの自体が違う事により、「人」が存在することから、個性が異なり人と人とは感じ方、考え方が別世界の様にそれぞれ異なるという深い教訓を得られました。
その事からまずは人間とは、それぞれ果てしなく伝統的な奥ゆかしい個性、考え方の違いが存在し、それぞれが良い意味で異なることをまず、それぞれの個性で咀嚼し捉える事で、次に人種というもの自体を差別ではなく区別することが可能となり、調和がもたらされ、人種、民族の垣根を超える場を提供させて頂くことが可能になるのではないかという志を大切にしております。
それには当社の原点回帰を常に心の軸に据え置きながら「自由且つ誠」の精神を貫き通してまいります。
当社は、地域のレコーディングスタジオとして「音楽」というものを自由に柔軟に捉え発信できる「場」として、「人種」「宗教」を平等に捉えつつも、「職種」という垣根も超えて、本質的には「言葉」「言語」そのもの自体が芸術、アート、音楽と捉えて頂けるように、当社では常に「芸術」「アートとは何か?音楽とは何か?生ドラムとは何か?生ピアノとは何か?」と柔軟かつ適切に芸術、音楽、アートにおける固定概念への執着の捉え方について意見交換、研究しています。
音楽、芸術、アートには様々な提言がなされておりますが、当社では「発信する」というそのもの自体には「練習」という角ばった堅苦しい言葉は必要ないと考えております。お客様がその場ですぐに発信できるよう努めております。
地域の包括的な自由且つ誠なレコーディングスタジオとして、音楽、芸術、アート、そのもの自体を自由に、更に誠に発信できる場として、誠なレコーディング、発信のリスクから、著作物の管理まで、日本で最新の「レコーディングスタジオ」技術、サービスを提供すべく、毎日研鑽を積み続けております。